観光・お出かけ

本居宣長奥墓(おくつき)は、山室町の松阪ちとせの森の山頂にある神聖な場所

松阪を代表する医者・国学者である本居宣長。
松阪市内には、本居宣長の関連する施設がいろいろあります。
他の施設は集中してありますが、今回ご紹介する本居宣長奥墓は少し離れたところにあります。
ちなみに「おくはか」ではなく「おくつき」と読みます。
多分、知らない方も多いと思いますが、本居宣長個人の墓でここに埋葬されています。
国指定史跡に指定されています。

本居宣長奥墓とは

松阪市出身の国学者である本居宣長は、1801年(享和元年)に亡くなられました。
亡骸は、本居宣長の遺言書に従い松阪市山室にある妙楽寺の山内に葬られました。
この場所は、松阪の町、遠くは三河や富士山まで望めたという山室山を気に入っており、自分の墓場と決めて遺言にも残しています。

ちなみに、まわりには大きな木があるので景観が良いとはいえませんが、当時は多分絶景やったのかと思われます。
墓の碑文(石碑に彫りつけた文章)は、本人の自筆で、まわりには好きだった山桜がうえられています。

本居宣長と本居宣長記念館についてはこちらへ

松阪市の本居宣長記念館では、古事記伝を初めとして本居宣長について全てを知ることができる松阪市に住んでいたら本居宣長って名前を聞かないことはないと思います。 が、、、、実は何をしていた人かさえ知らなかったのが本音。 ...

○居宣長奥墓ってどこにあるの(アクセス)

本居宣長奥墓は松阪郊外にあり、自動車以外のアクセスはちょっとしにくいので、自動車での交通手段でのアクセスは下記の通りです。

車でのアクセス

伊勢自動車道松阪インターを降り、最初の交差点(松阪インター入口)を右折し、道なりにずーっと走っていきます。
5分ぐらいそのまま走ると突き当たりに166号線に出る交差点(丹生寺町)があるので右折します。
そこから直進し交差点(桂瀬町)を左折して道なりに進み、花の丘病院と介護老人保健施設カトレアが右手にあるのでこえて、最初の交差点(信号なし)を右折して道なりに走ります。
交差点手前の看板には、本居宣長奥墓と書いてあるので分かると思います。
交差点を曲がるとすぐに狭い道に変わります。

山に入っていくような雰囲気にちょっと大丈夫か?
バックできんって不安になりつつ。

完全に山道に入りますが、少し走ると駐車場がありますよ。

本居宣長奥墓について基本的なこと

本居宣長奥墓は常時開放しているので、いつでも見学をすることが出来ます。
が、、、、昼間でも木々が茂っているので不気味な雰囲気ですし、夜になると暗すぎてめちゃくちゃ危険なので行かないことをオススメします。
完全に道は山道ですし、自己責任で。
てか行かない方がいい。

名称 本居宣長奥墓
住所 三重県松阪市山室町1374
電話番号 0598-21-0312
開園時間 なし。
閉園日 なし
入園料 なし
サイト http://www.norinagakinenkan.com/index.html

本居宣長奥墓を見学(写真で案内)

細い山道をのぼっていくとまわりが開けて駐車場に到着しました。

ここの駐車場には、意外と立派なトイレもあるんです。

松阪ちとせの森を利用される皆様への看板は、更に見えにくい。

まぁまぁ一般的な内容なので確認します。

階段手前に松阪ちとせの森の案内図。

ちょっとさびれた感はいなめませんが、松阪市に長年住んでいながら存在は知らなかったなぁ小さな山の森林を生かした、「かほりの森」「さざんかの森」「つばきの森」「さくらの森」「四季の森」「木の実の森」の6つの森があり、ハイキングや動植物の観察などが出来る自然豊かな場所です。

アトラクションがありそうな、イラスト看板ですが残念ながらありません。
横には、「山室に専念の春の宿しめて風に知られぬ花をこそ見ぬ」という、本居宣長の歌があります。

この歌には亡くなる1年前に、門人たちとこの地を訪れ、お墓の場所を選定した際の歌なんだそうです。

それでは、早速、石畳をのぼっていきます。

下から見ると延々と階段が続いているように見えるので覚悟していきます。
石畳は段差がまちまちなんで歩きにくいかな。

横は石垣になっており、歴史を感じさせるつくりです。

妙楽寺

数分、のぼっていくと右手にお寺が見えてきます。

どうやら、妙楽寺というらしいです。
という訳で早速お参りしていきます
ここのお寺は無住職のお寺で、住宅もありますが誰も住んでいません。
お寺の管理は本居家の菩提寺である樹敬寺(松阪市内)がしているそうで、樹敬寺の住職の隠居寺で、本居宣長も良く訪れたお寺なんだそうです。
ひっそりとした静かな空気が流れ、鳥なんかの鳴き声が聞こえるぐらいです。

お堂は扉が閉められており、中を見ることが出来ません。

重厚な瓦と立派な柱と白壁のコントラストが良い感じですね。

観音堂は1567年(天正4年)に織田軍に滅ばされた山城城の廊下材を供養の為に使っているそうです。
山城城は、1kmほど離れた場所にあったお城で、落城された際に、廊下が血塗られたものを使っているそうで、血天井と呼ばれています。

残念ながら、扉は開いてないので見えませんでしたが、そのような歴史があります。

奥墓旧石柵の石柵、石柱、花筒は、本居宣長没後、100年を記念して周囲に設置してあったもので、200年を迎えるにあたって、200年前の形に復元されました。
それに伴って、石柵等も役割を終えて、この場所に保存されることとなったそうです。

鐘がありますが、もぉ使われていないであろう雰囲気。

つるしてあるけど危険なのか立ち入り禁止ですよ。

多分、池になっていたであろう場所の中央には亀とその上に石碑というシュールな雰囲気。

本居参道

ここで到着じゃないので更に上を目指します。
しっかり階段が舗装されており、登りやすくなりました。
この通りを本居参道と呼ぶそうです。

それほど勾配はなくって、ところどころで平坦になるので歩きやすい。
崖になっているところ木のフェンスもあるので安心して進めますよ。

もぉ、このあたりまで来ると完全に山道を歩いていますし、まわりも木だけになってくる。

階段、平地を繰り返して歩くんですが、それほどの距離ではないにせよ山登りみたいなことをするつもりじゃなかったんで、意外としんどい。

途中で休憩用のベンチがあったが、座るのには抵抗あるよなぁ。
コケたっぷり~。

キレイに整備されているところは良いのですが。

足まで巻きついてくるぐらいの草のところは虫が怖すぎる。

と、、、少し抜けるとまさかの道路?!

ここまで車で来る手段があったのかとがっかりしますよ。

更に階段を登るルート。

看板もその都度あるので迷うことはありません。

ここまで来ると整備されていないので、帰りたくなる。

ヘビがおったらアウトやなぁ。

注意書きがあり。

奥津城ってことは、この山の上に城があったってことか。

木の隙間から空が見え出したら頂上近く。

そして最後の分かれ道へやってきました。

本居宣長奥墓

やっと到着。
ここでは本居宣長奥墓についての説明があります。

左と右の階段があり、左側が本居宣長奥墓へ続く階段です。
上でもつながっていますが。

まっすぐにのびる石畳の階段をのぼって、本居宣長のお墓に到着しました。

形は不規則ですが、コケの具合も含めてキレイに見えます。

木の柵でかこまれており、この一画だけは神々しい、神聖な空間になっています。

空気も変わって気が引き締まる思いです。

彫られている「本居宣長之奥墓」の文字は、自筆の文字を彫ってあります。

達筆でキレイな文字ですよね。

後ろには愛してやまなかった山桜が植えられています。
桜のシーズンに見てみたいものですね。

奥墓の傍らには、宣長の没後の門人(弟子、門下生のこと)平田篤胤(あつたね)の歌碑があります。没後の門人って良く分かりませんが、本居宣長とならんで、日本の国学4大人の1人なんです。

立派な方じゃないですか。

まとめ

本居宣長奥墓を見に着たけど、松阪市に松阪ちとせの森を知れたのは良かった。
文化的なことに興味がなくっても、松阪ちとせの森は自然豊かで歩道も整備されているので、軽いハイキングには良いなぁ。
本居宣長奥墓は、その場所だけは神聖な空気が流れる、どこかパワースポット的な場所ですね。
木の隙間からさす光が神々しかった。

松阪市の本居宣長記念館では、古事記伝を初めとして本居宣長について全てを知ることができる松阪市に住んでいたら本居宣長って名前を聞かないことはないと思います。 が、、、、実は何をしていた人かさえ知らなかったのが本音。 ...
古事記伝の本居宣長が生涯すごした本居宣長旧宅(鈴屋)は当時の生活を思い浮かべることができる本居宣長記念館に隣接して、医者・国学者であった本居宣長の旧宅があり、2階にあった書斎を鈴屋と呼んでいました。 書斎は、53歳の時に物置...
本居宣長旧宅跡は古事記伝が生まれた本当の場所で、建物は松阪城敷地内に移転されてます松阪を代表する医者・国学者である本居宣長。 住んでいた家は、松阪城跡の隠居丸に移築する前の本居宣長旧宅跡は本来の場所です。 今は、平...
松浦武四郎記念館には、北海道の名付け親松浦武四郎が全国を歩いた探検家としての多くの資料が残る松阪市の誇る偉人 松浦武四郎記念館へ行ってきました。 漠然と北海道の名付け親であるって知識しかありませんでしたが、なぜ北海道を調査...