観光・お出かけ

松浦武四郎記念館には、北海道の名付け親松浦武四郎が全国を歩いた探検家としての多くの資料が残る

松阪市の誇る偉人 松浦武四郎記念館へ行ってきました。

漠然と北海道の名付け親であるって知識しかありませんでしたが、なぜ北海道を調査して、名付けたかも含めて勉強できました。
2018年(平成30年)で生誕200年です。

松浦武四郎とは

松尾芭蕉、本居宣長とともに、三重県が生んだ偉人のひとりです。
松浦武四郎は1818年(文化15年)に、伊勢國須川村(現三重県松阪市小野江町)に農家の子として生まれました。
自宅の前には伊勢街道が通っているので、伊勢神宮へ向かう旅人が多く歩いており、旅というものに非常に興味を持ったそうです。

16歳の時には、両親の父母の反対を押し切って江戸まで1人旅をし、結局は連れ戻されることになりましたが、旅の楽しさを知って、17歳になって日本全国をめぐる旅に出ました。
19歳で四国八十八カ所の霊場、中国地方を経て20歳からは九州各地を歩きました。

長崎で病に倒れた後、僧侶となり、長崎県北部の平戸でお寺の住職を務め、さらに対馬へと渡り、朝鮮半島を目指しましたが、鎖国のために海外へ行くのは断念しました。
1845年(弘化2年)の28歳の時に、ロシアが蝦夷地(今の北海道)を狙っているのではないかという話に、日本の危機を心配し、実際に蝦夷地へと行き、どんなところかを自分の目で確かめるべき向かいました。

初蝦夷地は、函館から太平洋側の海岸線を歩いて知床岬まで行き、翌年にはカラフト(今のサハリン)、南部1849年(嘉永2年)には、函館から船に乗り国後島、択捉島など、6回もの蝦夷地調査を実施しました。

幕末の頃には、大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允などからも評価され、明治政府の役人として開拓判官を任命されました。
蝦夷地に替わる名称を考えることにかかわり、「北海道の名付け親」と称せられるようになりました。

晩年は、68歳という年齢で、三重県から奈良県につらなる、日本3大峡谷にもなっている大台ケ原にも登り、その後も2回毎年登山をしてたんですって。
その後には富士山にまで登ったということで、当時はまだまだ開拓されていないところではあるが、冒険家、探検家として、1888年(明治21年)2月10日に、東京の神田五軒町にある自宅で亡くなるまで、全国各地を渡り歩いていました。

北海道の調査から始まり、全国各地を旅をし、松浦武四郎が歩いた道をつなげば、日本地図ができ上がるとまでいわれたほど、その調査は日本全国に及んでいます。

松浦武四郎記念館とは

松浦武四郎記念館は1994年(平成6年)に開館した施設で、松浦家から松阪市(旧三雲町)に寄贈された松浦武四郎の貴重な資料を数多く収蔵されており、2008年(平成20年)には資料のうち、1,503点が国の重要文化財に指定されました。

松浦武四郎記念館の展示室では、約2ヶ月ごとに展示資料を入れ替えているので、何回やってきてもいろいろな松浦武四郎を知ることが出来ますね。
展示室が暗いのは、紙や絹、木など光に敏感な素材で出来ているので、作品を保護する為なんです。

他にも展示室以外にも、小野江地区の公民館機能を有しており、地域のイベントや講座なんかにも活用されています。

松浦武四郎記念館ってどこにあるの(アクセス)

松浦武四郎記念館は、平成の大合併により、1市(松阪市)4町(嬉野町、三雲町、飯南町、飯高町)が平成17年1月1日に合併しました。その中の、旧一志郡三雲町と呼ばれる地域にあり、松阪市でも、三重県の県庁所在地である津市寄りにある町にあります。

車でのアクセス

高速でやってくると伊勢自動車道一志嬉野インターを降りるルートが一番近いです。
だいたい15分程度を見ておいて下さい。
国道23号線からくると分かりやすい立地ですが、カーナビを使うことをオススメします。

公共交通機関でのアクセス

三雲地域コミュニティバス「たけちゃんハートバス」
伊勢中川駅東口ロータリーから、五主行きで「松浦武四郎記念館」下車すぐ。
所要時間 約10分
※ただし、平日のみで土日祝日及び年末年始(12月30日~1月4日)は運行してないので注意して下さいね。

徒歩でのアクセス

伊勢中川駅より徒歩40分となかなかかかるので、オススメはしませんが歩けない距離ではありません。
平日なら上記のバスを利用するのが良いと思います。

松浦武四郎記念館について基本的なこと

松浦武四郎記念館の入館料は、大人は310円6歳以上18歳以下は200円です。
あと、徒歩圏内には松浦武四郎誕生地である、実家との共通入館券がセットで大人は350円6歳以上18歳以下は誕生地は無料ですので200円でそのままです
休館日は月曜日です。祝日の翌日も休館するので注意してください。
あとは年末年始の12月29日~1月3日もお休みです。

名称 松浦武四郎記念館
住所 三重県松阪市本町2195番地
電話番号 0598-21-4331
開館時間 9:30~16:30
休館日 月曜日、祝日の翌日 12月29日~1月3日
入館料 松浦武四郎記念館 大人310円、6歳以上18歳以下200円
松浦武四郎記念館・誕生地共通入館券 19歳以上 350円
サイト https://takeshiro.net/

松浦武四郎記念館を見学(写真で案内)

北海道の名付け親という前情報だけでやってきました。
最近は松浦武四郎で町おこし的な活動を聞くことも多くなってきましたが、知ったのはここ数年で恥ずかしながら知識がありません。
話によると三重県よりも北海道での知名度が凄いらしくって、地元民としても知っておく必要ありますよね。

という訳で、平日のオープンと同時に松浦武四郎記念館へ行ってきました。

立派な建物で、駐車場はかなり広いくって、多分50台ぐらいは駐車できると思います。

早速、中に入って支払いを済ませます。
非常に接客も丁寧で感じの良い施設ですね。

ロビー

まずは床に広がるのが東西蝦夷山川地理取調図。
北海道の地理がことこまかに記載してあります。
あとは、松浦武四郎の全6回の調査の足跡が記載されています。

入り口の左側には、松浦武四郎をイメージしたキャラクターたけちゃんがいます。

もちろんはじめて見るキャラクターです。
が、、、、他にもいるんです。
ちゃちゃもは松阪市のキャラクターなんでメジャーなんですが、レプとぺうというくまのキャラクターは、たけちゃんを北海道から追いかけてきたんです(笑)

冒険家であり、探検家であるたけちゃんはいつでも、情報を残せるように野帳を持っています。野帳って野外での記入を想定した、縦長で硬い表紙のついた手帳(ノート)のことを言うそうで、当時からもそのような手帳があったんですね。

記念撮影用にアイヌ民族の衣装体験もやってます!

せっかくなんでやりたいところですが、汗だくなんで今回はスルー。
記念になるんで良いですね。

アイヌ語の挨拶なんかも掲載。
イランガラプテ こんにちわ
イヤイライケレ ありがとう
ラッコやトナカイ、シシャモもアイヌ語なんですね!

タイミングよくって、嵐の松本潤が主演の松浦武四郎のドラマ「永遠のニシパ」のポスターが。一気にブレイクしそうな予感しますよね。
他には、松浦武四郎の関連する本がずらり。
こんなに出版されているのに驚き!?

展示会の入り口には松浦武四郎が鎮座してます!

一般の方からの寄贈品です。
そして、一番良く見かける松浦武四郎の写真ですね。

北海道の名付け親松浦武四郎の文字がインパクトあるなぁ~まさに松阪の誇る偉人って雰囲気。

展示室

飲食・タバコは禁止。
展示品保護の為に暗くなっているとのこと。
撮影は、フラッシュをたかなければ問題ありません。

映像紹介

まずは、イスが並んでて、映像で数分の説明。

松浦武四郎の生い立ちと蝦夷地(現北海道)の調査が中心で、6回もの過酷な調査のもとに北海道の地図を作り、北海道を名付けたんだそうです。

ライトで照らされたなんとも神々しい松浦武四郎が立っています。

横には、松浦武四郎が作った、北海道を函館から1周まわってくる、北海道を旅した気分になれるすごろくなんかもあるんです。

常設展示

ここから展示スペースへ。

松浦武四郎が6度も調査に行った、蝦夷地はアイヌの人々を指して蝦夷と呼んでて、住んでいた地域が蝦夷地でした。
蝦夷地は日本海・オホーツク沿岸地域を西蝦夷、太平洋沿岸地域を東蝦夷と分け、また幕末にはカラフトを北蝦夷ともいいました。その、蝦夷地を支配していたのが松前藩でした。

松浦武四郎の足跡は、日本地図に日本全国を旅した経路が記してあります。

北海道も隅から隅までですが、九州や四国、中国、北陸、関東もろもろ全国各地を旅しているんですね。それも歩いてっていうんですからハンパない。

実際に略年図にはびっしり、、、、旅をし続けています。

細かい字で読めんと思いますが。
最初の説明でもあったように、亡くなる前まで、秘境中の秘境である大台ケ原を毎年訪れるほどです。

自筆の書簡は16歳の時に、家出した際に、「江戸、京、大阪、長崎、唐又は天竺まで行ってみたい」という志を書いてあるんです。

それにしても達筆。

北蝦夷余誌は、蝦夷地調査を読みやすいように、絵や和歌を用いて、蝦夷地やアイヌ民族の姿を伝えるために工夫を凝らしてあります。

四国遍路道中雑誌は、四国八十八箇所巡礼をした時に、まとめたもので、出版はされていないが、景色などのスケッチがふんだんにあり、当時の様子がおさめられたものです。

松浦武四郎は多才な人物でいくつかの顔を持っています。
一番印象的なのが、旅行家・探検家としてで、話を聞く限りめっちゃタフ。
交通手段があった時代じゃないので、基本的には歩きでの日本中をまわっており、開拓者として道なき道を歩いているんですから・・・・。
今まで歩いたところをたどると日本地図が出来るといわれるほどで、土地の人と知り合いながら、情報やスケッチを書いていました。

地図制作者として製作した蝦夷地図は、大小12種類あります。
今まで作られた蝦夷地図は、輪郭だけのものでしたが、武四郎が作ったものは足で手にした情報を落とし込んで、空白部分だった内陸部分の情報をうめたものになっています。

出版者として、自費出版を行っており、版木を掘って、1枚1枚刷っています。

十勝日誌

久摺日誌

石狩日誌

など、今で言う観光雑誌のようになっています。
イラストの上手さに驚きです。
かなりの費用はかかるものの、関心は高くってそこそこ売れていたんだとか。

蝦夷大概之図は、3回の調査結果からはじめて作った蝦夷地の地図です。

実際の北海道に比べると少しいびつですが、3回行って、当時は満足な測量の機械なんかもなかったでしょうし、もちろん上から見ることも出来ない中での、歩いて自分の足だけで作ったこの完成度は凄いですよね。
樺太の地図を見て、遠目ではなかなかわからんのですが。
近くに寄るとびっしり、書かれた1つ1つの地名や地形、川の流れなどの情報が書かれています。

ロシアとの国境問題から出版はできなかったもので自筆だけしか残っていません。

最初にあった、聖跡二十五霊社順拝双六は、1886年(明治19年)の正月に発売したものです。

菅原道真にゆかりの深い25ヵ所の天満宮を聖跡二十五霊社と定め、由緒ある古跡7ヵ所を加え、32の場面で構成しています。

嘆願書控は、松前藩の役員や商人たちが、自らの不正が発覚することを恐れ、調査を妨害されることがあっても、最後まで調査を行わせて欲しいという内容が記載されています。

近世蝦夷人物志は、自ら見た、聞いた話を記録し、アイヌの人間性を正しく伝えて、役人や商人たちの非道ぶりを訴える内容でした。実名を公表しようとしたのですが、出版は許されませんでした。

写真でも首からかけている大首飾り。

本物ではなくレプリカですがヒスイやめのう、水晶の勾玉(まがたま)や管玉など計243点が連なる珍しいもので、長さは145cm、重さ3kgとかなり大き目のものです。

ビデオ説明

自分で聞きたい内容を選べるビデオの説明もありました。

1.諸国遊歴
2.北の大地へ
3.北海道の名付け親
4.イランカラッテ こんにちわアイヌ文化

1つにつき、10分弱という結構長めで、1つは30分あるので全部見たら1時間ぐらいかかってしまいます。というか、ビデオとのことですが、不具合かもしれませんが、音声のみしか流れなかったので2本ぐらいみたぐらい。
読み物より、映像なんかの方が頭に入りやすいですね。
円状のスペースを囲むようにベンチになっており、ここで休憩も良いです。

一畳敷書斎

展示場の一部に、箱型の展示があります。

こちらは、一畳敷書斎と呼ばれ、全国の知人に頼んで、各地の古社寺などから古材を送ってもらい、それで一畳視スペースの書斎を自宅に増築しました。

実際に、東京には現存されているそうですが、誕生の地である松阪にも再現したものを展示しています。
松浦武四郎は70歳を前に、足も衰えて旅をすることが難しくなってきたことから、今までの旅の人生を振り返る思い出の場所として使っていました。

すごろく冒険クイズ

最後に、今まで学んできたことを確認。

ディスプレイが2台あって「松浦武四郎すごろく冒険クイズ」が出来ます。

すごろくでサイコロをふって、止まったところで松浦武四郎クイズ(3択)に答えます。

どれだけ間違えても、答えてったらゴールできると思いきや、ゴールする前に終了。
もう少し評価でした?!

まだまだ、松浦武四郎の知識は低いので勉強します。

その他の展示

今はなき旧三雲町歴史年表。

北海道日本ハムファイターズより寄贈の松浦武四郎生誕200年を記念したユニフォーム。

TAKESHIRO 背番号200!

ダイヤル式耐火金庫は松浦武四郎の実家にありました。

外側や扉には砂が詰められて燃えにくくしてあり、重さは600kgあります。
ダイヤルは番号ではなく、イロハニホヘトですって。

この周辺は伊勢街道の宿場町で、当時は伊勢詣での為に、伊勢講(伊勢神宮の参詣を目的に集った講)が組織されていました。それぞれの講が指定した旅館には講札という目印が掲げられていたんです。

それが、このような看板です。

展示スペースとしてはそれほど広くはありませんが、これで終了です。
しっかり見ると1時間ぐらいは楽しめますかね。

まとめ

接客も丁寧で好感が持てますね。
記念館では松浦武四郎の生い立ちから、生涯にかけての取り組みなどが全て知ることができます。
特に、全国各地を自分の足で歩いて、調査して北海道の名付け親になっただけでなく、幕府なんかともつながりもあり、アイヌ人についての、正確な情報を伝えた功績は高いですよね。
知れば知るほど凄い人でめっちゃ面白い。

 

松阪市の本居宣長記念館では、古事記伝を初めとして本居宣長について全てを知ることができる松阪市に住んでいたら本居宣長って名前を聞かないことはないと思います。 が、、、、実は何をしていた人かさえ知らなかったのが本音。 ...
古事記伝の本居宣長が生涯すごした本居宣長旧宅(鈴屋)は当時の生活を思い浮かべることができる本居宣長記念館に隣接して、医者・国学者であった本居宣長の旧宅があり、2階にあった書斎を鈴屋と呼んでいました。 書斎は、53歳の時に物置...
本居宣長旧宅跡は古事記伝が生まれた本当の場所で、建物は松阪城敷地内に移転されてます松阪を代表する医者・国学者である本居宣長。 住んでいた家は、松阪城跡の隠居丸に移築する前の本居宣長旧宅跡は本来の場所です。 今は、平...
本居宣長奥墓(おくつき)は、山室町の松阪ちとせの森の山頂にある神聖な場所松阪を代表する医者・国学者である本居宣長。 松阪市内には、本居宣長の関連する施設がいろいろあります。 他の施設は集中してありますが、...